フィリッポ・リッピとプラート

フィリッポ・リッピとプラート

【宗教画:1】イタリア巡礼路を辿る†~魂を彩る神聖な旅~

皆さま、プラートという名前をご存じでしょうか。イタリア中部、フィレンツェのサンタ・マリア・ノッヴェッラ駅から電車で20分ほど移動すると到着できるトスカーナ州の街です。街の主な観光名所はのんびりと散歩しながらまわれますので、フィレンツェへ行かれた際は、少し足を延ばしてみてください。見どころ満載だけれども、観光客が大変多いフィレンツェに比べ、プラートは静かな地元の街ですので、フィレンツェ観光の息抜きになることでしょう。

フィリッポ・リッピとプラートさて、プラートとフィレンツェ、その距離約25キロという、このふたつの都市は歴史的に深い関係性をもっています。プラートは中世初期には独立した都市国家として存在しており、特に織物産業で財を成していました。しかしながら、13世紀には経済的も軍事的にも勢いを増していたフィレンツェは、トスカーナ地方でその勢力を拡大し、プラートもフィレンツェの一部となります。プラートの独立は失われることとなりますが、プラートの織物産業はフィレンツェを通じ、さらに取引先を拡大していき、現在まで続くイタリアの繊維産業の中心地として知られることになります。また、フィレンツェの芸術的側面の影響も強く受けたプラートは、フィレンツェをはじめ各地から多くの画家や建築家を呼び寄せたため、制作活動が盛んな街となりました。これにより、プラートの大聖堂や教会などに多くの芸術作品が残されたのだと考えられます。

 

フィリッポ・リッピとプラート1406年フィレンツェに生まれたフィリッポ・リッピも、そうしてプラートへやってきた芸術家のひとりです。幼いころに両親を亡くし、孤児となったフィリッポ・リッピは修道院に引き取られ、そこで育ちます。若くして修道士になったリッピですが、次第に絵の才能を開花させ、修道士としてよりも、画家として世に知られるようになります。リッピの作品の特長は、なんといってもその女性像の柔らかさ、美しさにあります。彼のもっとも知られている作品、ウフィッツィ美術館の「聖母子と2人の天使」をご覧になったら、きっと聖母マリアの繊細さ、純粋さ、透明感のある表現に目を奪われることでしょう。

 

フィリッポ・リッピとプラート『聖母子と二人の天使』1450年-1465年頃 ウフィッツィ美術館 フィレンツェ
この美しい聖母マリアのモデルの女性は、修道女ルクレツィアであると言われています。ルクレツィアはリッピの人生を大きく変えた人物として知られています。そして2人が出会った街がこのプラートなのです。
リッピがプラートへ出向いたのは1452年。画家としてすでに人気を博していた40代の時期です。それから10年以上にもわたり、彼はプラートに住み、プラート大聖堂<サンタ・マリア・デッレ・カルミネ教会>の礼拝堂の壁画の制作にあたります。その一連の壁画「洗礼者聖ヨハネの生涯」のうち、「ヘロデの宴」に登場する美しい女性、サロメのモデルをルクレツィアが引き受けたのです。

 
 

フィリッポ・リッピとプラート『ヘロデの宴』。聖ステファヌスと洗礼者聖ヨハネの物語の一部 1452年-1465年頃
実は、フィリッポ・リッピは修道士でありながら破天荒で女好きであることでも有名。彼は、30も年下の美しい修道女ルクレツィアを誘い出し、駆け落ちをするという大スキャンダルを起こしているのです。修道院育ちとは思えない一面ですね。

しかしながら、このルクレツィアの存在が、彼の描くマリア像に多くの影響を与えたと言うわけです。その後、ルクレツィアはリッピの聖母像の多くにモデルとして登場し、そしてそのどれもが、現代の私たちを魅了する、柔らかで、はかなげな美しさを伴っているのです。そして、二人の子供、フィリッピーノ・リッピもまた芸術家として、後の世に多くの作品を残したことを考えると、彼の破天荒さ故に後の世に残された多くの傑作があるということは否めませんね。

 プラートを行く際は、570年もの昔、タブーを犯してまで結ばれた修道士、修道女に思いを馳せながら歩いてみてください。閑静な街並みや教会、荘厳な壁画の中にキラリと光る人間性をみることができるはずです。

文責/アドマーニ