アマルフィ公国
アマルフィ公国~Chiacchiere!/Mail Magazine 30 Agosto 2023
エメラルドグリーンの海と険しい崖に囲まれた小さな海岸の街、アマルフィ。その絶景をカフェやレストランで眺めながら新鮮な海の幸を堪能し、地中海の風を感じるひとときは、訪れる人々の特別な思い出となること間違いありません。中世のアマルフィ公国の繁栄が息づく歴史的建造物や町並みを見れば、まるでタイムトラベルしたような気分も感じられることでしょう。中世の地中海地域における商業と冒険の舞台として、アマルフィは9世紀から11世紀にかけて地中海の海上交易を牽引し、他の都市国家との競争と共に歴史にその名を刻みました。今日はそんなアマルフィの歴史を少し深堀りしてみたいと思います。
アマルフィ公国の物語は、ビザンツ帝国の支配下にあったアマルフィ市が、839年に独自の公国として承認されたところから始まります。元々はナポリ公国に支配されていた地域であったアマルフィでしたが、知事を選出するなど自治共和国としての形を整え始めたのです。958年には元首を選出して公国となり、アマルフィは商業と海事技術の発展を進め、地中海の交易路でその名を輝かせることとなりました。中でも「アマルフィ海洋法」として知られる海事法は、当時において画期的なものでした。この法典は、航海、商取引、船舶の運航に関する規定を整備しており、当時の海上交易を円滑に行う基盤を築いたと言われています。
その影響は17世紀にまで続いたというのですから驚きです。アマルフィ市民の航海技術や造船技術の発展も相まって、彼らは遠方の地域との交易を可能にしたと言われています。異文化交流を大切にしたアマルフィ公国は、アラブや東ローマ帝国とも知識や技術の交換をもたらすなど、海洋交易における単なる商業の枠を超えて、文化的な架け橋としての役割も果たしました。最盛期にはイタリア北部のヴェネツィアから南のモロッコ、チュニジア、エジプト、東はコンスタンチノープル、トルコ、中近東にまで及んでいたアマルフィの交易路。地中海貿易の先駆的存在だったと言われるのにも納得です。
次第にアマルフィ公国は、他の都市国家との間で、海上交易や領土を巡る争いが続きました。ジェノヴァ、ピサ、ヴェネツィア、バルセロナ、アフリカなどの海洋都市国家は独自の商業戦略を追求し、アマルフィとの競争も激しくなっていきました。特にピサ共和国との対立はアマルフィ公国の運命を決定づけるものでした。両国ともに地中海地域における政治や経済、文化に大きな影響を与えるほどの力を持っていた2国でしたが、ピサ共和国が次第に軍事的に優位となり、1135年の大規模な戦争によってアマルフィ公国は壊滅的な打撃を受け、アマルフィ公国はその独立性を失っていったのです。その後、アマルフィ公国はシチリア王国に支配され、歴史の舞台から退きますが、建築物や芸術作品に加え製紙の技術など、その遺産は今日まで残っています。
最後にもう一つ興味深い話をみつけることができました。アマルフィ公国の旗は、青地に白で4つの「V」でできた十字が描かれたものだったそうです。実はこの八角十字のマーク、色こそ異なりますが今ではマルタ共和国の国旗に使われているマルタ十字と同じ。なぜアマルフィとマルタの国旗が同じマークなのでしょうか?その謎を紐解くカギは聖ヨハネ騎士団。地中海交易で各地に渡っていたアマルフィ商人たちは、西暦1050年頃に聖地エルサレムに巡礼者たちのための病院を設けたのだそうです。その病院が後に聖ヨハネ騎士団の母体となったと言われています。アマルフィ公国の八角十字は、聖ヨハネ騎士団のシンボルとなり、騎士団が16世紀以降マルタ島に拠点を移し「マルタ騎士団」と呼ばれるようになったことから、現在では「マルタ十字」として知られるようになったのだとか。お隣の国であるマルタ共和国ともつながりのあるなんて面白いですね。
アマルフィ公国の歴史は、今もなおその美しい名所を通じて感じることができます。ドゥオモ広場のサン・アンドレア教会や、ヴァッレ・ディ・ムーレ教会からは、かつての栄光と繁栄を、アマルフィ歴史博物館では、航海技術やアマルフィ海洋法を通じてその歴史に触れることができるでしょう。風光明媚な「世界一美しい海岸」と言われる景色とともに、世界遺産アマルフィの魅力を味わってみてはいかがでしょうか。
文/アドマーニ